濃濃情意、動(dòng)人戀曲;譜出旖旎浪漫的愛(ài)情故事! 十七個(gè)不同的單元故事?! ?992年TVB單元劇,每集以歌星+影星的的形式,以當紅歌手的作品為背景拍攝的,集合了當時(shí)香港樂(lè )壇最紅的歌手和藝人。當時(shí)也只有TVB有這個(gè)實(shí)力召集這么多明星。
因為遭受不正當競爭而丟掉好幾個(gè)合作的美食自媒體博主蘇時(shí)雨(湯敏 飾),意外邂逅了放棄優(yōu)渥生活隱居在山上種茶的富二代林味(陳靖可 飾)。在事業(yè)走投無(wú)路的情況下,蘇時(shí)雨不得不接受林爸的“特別委托”——讓不問(wèn)世事的兒子“回歸紅塵”繼承家業(yè)。面對蘇時(shí)雨這個(gè)“闖入者”,清凈慣了的林味百般不爽。他相信蘇時(shí)雨忍受不了山中清苦的生活,三分鐘熱情很快會(huì )被澆滅。然而,蘇時(shí)雨卻用自己的熱情和執著(zhù),一點(diǎn)點(diǎn)的改變了林味的看法。在各自尋找人生方向,實(shí)現夢(mèng)想的路上,兩個(gè)人的不期而遇帶來(lái)了別樣的溫暖和治愈,愛(ài)情也在不知不覺(jué)中悄然滋長(cháng)……
本劇改編自同名漫畫(huà),是一部橫跨國界的浪漫愛(ài)情故事,講述了一個(gè)不相信愛(ài)情的冷酷律師花村愛(ài)子(清原果耶 飾)、一個(gè)只愛(ài)動(dòng)物的別扭獸醫白崎快(成田凌 飾),以及一個(gè)令人捉摸不透的韓國財閥三公子禹敘河(羅人友 飾)之間,由“愛(ài)犬”牽引而展開(kāi)的三角關(guān)系。
高中畢業(yè)期將近,一直以來(lái)都在半工半讀以籌得學(xué)費的大河內涉(長(cháng)瀨智也 飾)希望能夠實(shí)現自己到天文臺工作的理想,可是,糟糕的經(jīng)濟狀況讓涉意識到,自己甚至連大學(xué)聯(lián)考都無(wú)法參加,可是即便如此,他還是努力的拼搏著(zhù)。 和大多數備考生一樣,七倉園子(酒井美紀 飾)的肩上背負著(zhù)升學(xué)的壓力和負擔,父母對這個(gè)出生于醫生世家的女兒抱有著(zhù)巨大的期望,這在無(wú)形中增加了園子的壓力,在這樣關(guān)鍵的時(shí)刻,她只能咬緊牙關(guān),默默承受。一次偶然中,涉和園子在入夜的校園中撞倒了一起,一直以來(lái)同班卻不曾有過(guò)交集的兩人就此相知,逐漸發(fā)展出了一段有笑有淚的青春軼事。
認清現實(shí),明白自己遲早會(huì )被人吞下肚的蛋黃哥,成天只想懶洋洋地過(guò)日子,卻被霸道又干勁十足的雞動(dòng)哥強拉著(zhù)離開(kāi)冰箱,勇闖外面的世界。兩個(gè)南轅北轍的家伙展開(kāi)精彩冒險,尋找媽媽的下落。
Disc1 第一回「誕生」 1月4日放送 永祿八年(1565)、伊達家の當主?輝宗に最上義守の娘?義姫が嫁いできた。義姫は、東館に迎えられ、お東の方と呼ばれた。永祿十年(1567)八月三日、嫡男が誕生し、輝宗は「梵天丸」と命名。梵天丸は五歳の時(shí)、天然痘に倒れ右目の光を失ってしまう。 第二回「不動(dòng)明王」 1月11日放送 輝宗は、名僧?虎哉宗乙を梵天丸の學(xué)問(wèn)の師に招く。ある日、梵天丸は傅役?喜多と訪(fǎng)れた寺で、不動(dòng)明王はなぜ怖い顔をしているのかと訊ねた。そこで虎哉から、外見(jiàn)と異なり慈悲深い仏であると聞き、「梵天丸もかくありたい」と呟いた。 第三回「親ごころ」 1月18日放送 輝宗は、時(shí)の流れを見(jiàn)つめた外交的手腕を発揮していた。天正二年(1574)正月、最上家で內亂が起こる。父や実の兄弟の爭いに、お東は心を痛めた。そして、さらに心を傷つけられることが起る。家臣たちが、喜多を輝宗の側室にしようと畫(huà)策したのだ…。 第四回「元服」 1月25日放送 天正四年(1576)、梵天丸の弟?竺丸が誕生。お東は、輝宗に自分の乳で育てたいと言い、竺丸を寵愛(ài)した。天正五年(1577)十一月十五日、梵天丸の元服のxが執り行われ、名を藤次郎政宗と改める。お東から水晶の數珠を贈られ、母だと思い大切にすると誓う。 Disc2 第五回「愛(ài)姫」 2月1日放送 天正七年(1579)十一月、三春の城主?田村清顕の息女?愛(ài)姫が藤次郎のもとに嫁いできた。藤次郎は數え年十三歳、愛(ài)姫は十一歳。愛(ài)姫の傅役となった喜多は、愛(ài)姫を伊達の水になじませようと心を砕くが、田村家から同行してきた侍女が、姫への接觸を拒み続ける。 第六回「侍女成敗」 2月8日放送 田村家の侍女?村岡が「藤次郎君には、ことのほか凡愚にて主君の器にあらず…」と記した密書(shū)を三春に向けて放った。その密書(shū)を奪還した喜多が村岡らを問(wèn)い詰めると、突然、侍女が喜多に襲いかかった。喜多は身をかわし、村岡たちを斬り捨てた。 第七回「初陣」 2月15日放送 伊達家の護神に戦勝祈願をし相馬に向かった藤次郎は、小十郎らと勇敢に戦うが、初陣首を狙われかねない無(wú)謀な戦いに、輝宗から「大將は最後まで生きのびるのがつとめ、ときに臆病でなくてはならない」と厳しく諭される。この年の六月、織田信長(cháng)が死去した。 第八回「若武者」 2月22日放送 本能寺の変は、東北の大名たちにも衝撃を與えた。若武者?藤次郎は、「信長(cháng)のように生きてみたい」と天下への夢(mèng)を見(jiàn)る。その頃、譜代の家臣たちがお東と結びつき不穏な動(dòng)きを見(jiàn)せた。輝宗は、お家分裂の危機に隠居を決意。藤次郎に家督を継がせた。 Disc 3 第九回「野望」 3月1日放送 天正十二年(1584)十月、藤次郎政宗は伊達家十七代當主となる。側衆には伊達成実、片倉小十郎、鬼庭綱元らが選ばれ、家中の若返りが図られた。そして若干十九歳の政宗は、東北で最大最強の蘆名に敢然と戦いを挑んだ。政宗の器量を問(wèn)う合戦であった。 第十回「男の器量」 3月8日放送 天正十三年(1585)五月、伊達軍は會(huì )津國境の檜原峠から蘆名領(lǐng)へ攻め入るが、敵城?大塩城の守備は固く、戦況はおぼつかなかった。小十郎の進(jìn)言で、政宗は兵を米沢へ一旦引き揚げた。八月、政宗は田村家の協(xié)力も得て、再び小浜城の大內討伐に向った…。 第十一回「八百人斬り」 3月15日放送 戦いの火蓋は、小手森城で切って落とされた。大內定綱は會(huì )津と二本松に援軍を求め、持久戦の構えであったが、成実の働きで戦局は一転、小手森城は陥落。定綱が逃げたと知った政宗は激怒?;\城していた八百人の大內勢を皆殺しにして震え上がらせた。 第十二回「輝宗無(wú)殘」 3月22日放送 父?輝宗は、政宗に二本松の畠山義継との和睦を強く勧めた。政宗は、侘びを不服とし、領(lǐng)土の大半と一子を人質(zhì)に差し出せと言い渡す。義継はお禮言上と稱(chēng)して政宗に面會(huì )を求めるが、拒否されると宮ノ森城の輝宗に拝謁を求め、心を許した輝宗を人質(zhì)にとって二本松に連れ去ろうとした…。 Disc 4 第十三回「人取橋」 3月29日放送 政宗は、父の葬儀を盛大に執り行った。そんな折、二本松城に異変が起きる。佐竹、蘆名ら南奧州の大名が二本松城救援のため三萬(wàn)の連合軍を組織。政宗は観音堂山に陣を取り、人取橋で連合軍と対峙。この伊達の存亡をかけた戦いに、政宗は勝利する。 第十四回「勝ち名乗り」 4月5日放送 三萬(wàn)の連合軍を撃退した十九歳の政宗も、冬の二本松城には手も足も出なかった。政宗は、物資補給路を遮斷。七月十六日、遂に二本松城を無(wú)血開(kāi)城させる。塩松郡と二本松領(lǐng)を手中にした政宗は、仙道筋の全てを支配。初めての領(lǐng)土仕置きを行った。 第十五回「めごとねこ」 4月12日放送 天正十四年(1586)十月、愛(ài)姫の父?田村清顕が死去。愛(ài)姫の子を後継ぎに迎える約束の田村家は、権勢を夫人が握り、相馬に接近。愛(ài)姫は自分が懐妊しないのが原因と悩む。そんな折、家臣?飯坂宗康の娘「ねこ」が、政宗の最初の側室となる。 第十六回「南北の敵」 4月19日放送 天正十五年(1587)、春。米沢の北、長(cháng)井ノ莊で內亂が起った。政宗は直ちに鮎貝城に兵を出し、謀反を封じた。続いて大崎で內亂が起き、政宗は大崎への出兵を決行するが、家臣?黒川月舟斎の裏切りで軍勢は総崩れとなり、南北の脅威にさらされる。 Disc 5 第十七回「宮仕え」 4月26日放送 泉田重光が人質(zhì)となり山形城に預けられた。その頃、成実が大內定綱の軍勢を打ち破る。ところが定綱は伊達に奉公したいと、政宗に拝謁。政宗は、定綱を召し抱える。天正十六年(1588)五月、政宗は小手森城を攻略し石川弾正を追放。田村領(lǐng)へ進(jìn)軍し仙道を南下した。 第十八回「お東、居座る」 5月3日放送 政宗は、母?お東に最上との仲介を求めた。だが和睦の交渉はこじれた。両軍は國境の中山峠をはさんで睨みあう。その峠に、甲冑に身を固めたお東が和睦を求め座り込んだ。義光は上杉勢が領(lǐng)內に攻め入ったことで和睦し、泉田重光は解放された。 第十九回「大移動(dòng)」 5月10日放送 政宗は奧州平定を急いだ。蘆名討伐に向け、まず相馬を打ち砕くと、成実と小十郎隊を豬苗代へ進(jìn)軍させ、本隊は南の蘆名城へ進(jìn)撃。しかし、突然進(jìn)路を変え、六月四日、一萬(wàn)五千の大軍を率いて豬苗代湖の東岸を北上し、成実らと合流した。 第二十回「決戦、摺上原」 5月17日放送 天正十七年(1589)六月五日、摺上原で政宗が率いる伊達軍と蘆名軍が激突した。蘆名軍は、家內の內紛から足並みが揃わず、戦いは伊達軍の圧勝で終わった。奧州の名門(mén)?蘆名家は滅亡。この時(shí)から昇り竜の如き勢いの政宗は、獨眼竜政宗と呼ばれた。 Disc 6 第二十一回「修羅の母」 5月24日放送 天正十八年(1590)の初め、秀吉は北條氏討伐の軍令を発し、政宗にも參陣を促した。これを政宗は拒絶。お家安泰を願うお東と老臣たちは、政宗の蟄居を畫(huà)策。お東は、義光に「政宗の首を関白に獻上いたすのじゃ」と、政宗暗殺を強く勧められ苦悩する…。 第二十二回「弟を斬る」 5月31日放送 政宗は遂に參陣を決意、あいさつにお東をたずねた。祝いの膳に舌鼓を打つが、突然に吐き気をともなってのた打ち回る。毒がもられていたのだ…。一命を取りとめた政宗は、苦悩の末、小次郎を謀反者として成敗。お東は、義光のもとに落ち延びた。 第二十三回「小田原へ」 6月7日放送 政宗が最上の動(dòng)きを牽制し、越後から信濃路をたどり、小田原を目指した時(shí)、すでに秀吉は小田原城を二十二萬(wàn)の軍勢で包囲し終えていた。小田原參陣に遅れた政宗は、白かたびらに水引の元結、まさに死裝束で秀吉のもとへ參上するのであった…。 第二十四回「天下人」 6月14日放送 秀吉は、政宗の「打首覚悟で參上しました!」との言葉に、「運のよい奴よ…」と、満足そうに微笑んだ。かくして、政宗には何のおとがめもなかったが、會(huì )津領(lǐng)土を失うことに。政宗は「秀吉は五十四歳、俺は二十四歳…」と、時(shí)節の到來(lái)を待つ覚悟をする。 Disc 7 第二十五回「人質(zhì)、めご」 6月21日放送 秀吉は仕置きを行うと同時(shí)に、検地、刀狩りを実施。政宗には、愛(ài)姫を人質(zhì)として差し出すよう命じる。愛(ài)姫は「伊達家の安泰を…」と、喜多を伴なって上洛。この頃、東北では一揆が勃発。秀吉は「蒲生氏郷とともに一揆を鎮圧せよ」と政宗に命じた。 第二十六回「絶體絶命」 6月28日放送 伊達の家臣?須田伯耆が寢返って、政宗が一揆勢に與えた直筆を氏郷に持參。政宗謀反の報告は、秀吉のもとにも屆いた。政宗は秀吉に上洛を命じられ京へ旅立つ。今度こそは首をはねられる…、関白?秀吉の強大な権力の前に、政宗は絶體絶命であった。 第二十七回「黃金の十字架」 7月5日放送 清洲城で秀吉に拝謁した政宗は「密書(shū)に記された鶺鴒をかたどった花押には眼孔がない。本物ならば目に針の穴をあけてある」と申し開(kāi)きをする。秀吉は、なるほど…政宗逆心の疑いは晴れた、と許す。上洛の命を受けた政宗は白裝束に金の磔柱をかついで、京を行進(jìn)して參上。秀吉は上機嫌で迎えた。 Disc 8 第二十八回「知恵くらべ」 7月12日放送 天正十九年(1591)、政宗は、朝廷から従四位下の官位を授かる。しかし、會(huì )津の所領(lǐng)は召し上げとされた。再び勃発した大崎、葛西地方の一揆討伐に向かう政宗に、家臣らは、これぞ天下を取る好機と迫る。政宗と秀吉の知恵くらべが始まる…。 第二十九回「左遷」 7月19日放送 政宗は、一揆を完全鎮圧するが、大崎、葛西への國替えを命じられる。家康は、新しい領(lǐng)地は、東には海が開(kāi)け、西には豊かな金山がある。富は海からも山からも無(wú)盡蔵だ。決して左遷ではない、と政宗を諭して、巖手沢城を居城とするように勧めた。 第三十回「伊達者」 7月26日放送 文祿元年(1592)、政宗は朝鮮出陣の命を受け、軍勢を率いて上洛。九州勢から朝鮮遠征は始まった。政宗は、三千の兵を三萬(wàn)に見(jiàn)せようと、伊達勢の軍裝を飾り立てた。その絢爛華麗ないでたちに、出陣を見(jiàn)送る町衆たちは「これぞ伊達者よ」と賛辭した…。 第三十一回「子寶」 8月2日放送 伊達勢は、肥前?名護屋城での足止めが長(cháng)引いた。文祿二年(1593)四月、釜山に上陸するが、遠征軍は各地で敗北を喫していた。伊達勢も苦しく壯烈な戦闘が続いた。その頃、淀君が男子を産む。秀吉は鶴松の生まれ変りと喜び、遠征軍の撤退を決定する。 Disc 9 第三十二回「秀次失腳」 8月9日放送 政宗は、京で愛(ài)姫や娘?五郎八(いろは)と過(guò)ごしていた。文祿四年(1595)二月、蒲生氏郷が毒殺された。奧州三將を頼る秀次と親交を深めていたことが原因と噂された。三成のざん言に惑わされた秀吉は、秀次を高野山へ蟄居、最上義光の末娘?駒姫を処刑してしまう。 第三十三回「濡れ衣」 8月16日放送 秀次事件で義光は謹慎、淺野長(cháng)政は蟄居、政宗にも上洛の命が下った。政宗は、濡れ衣だと申し開(kāi)きをするが、流罪の沙汰が下る。政宗は、無(wú)念の思いを愛(ài)姫に伝えた。そんなある夜、徳川屋敷の門(mén)前に立てられた奇怪な高札で、事態(tài)は一転する…。 第三十四回「太閤の死」 8月23日放送 慶長(cháng)元年(1596)十二月、伏見(jiàn)城の城普請が完成。政宗が従四位下右近衛権少將に敘せられた祝宴の席上で、秀吉は倒れ病の床につく。三成が秀吉亡き後の布石を打つ中、秀吉は秀頼への力添えを政宗に頼んだ。慶長(cháng)三年(1598)夏、家康と利家に後を託し死去する。 第三十五回「成実失蹤」 8月30日放送 秀吉の死後、三成と家康が、奧羽の盟主?政宗をめぐって天下の綱引きを始めた。そんな中、出奔していた成実が帰參の勧告に応じず再び失蹤。政宗は、成実の居城の召し上げを決斷。しかし、成実の妻子は城の引き渡しを拒んで自害してしまう…。 Disc 10 第三十六回「天下分け目」 9月6日放送 事実上、最高権力者となった家康は、上杉討伐を決斷。先陣を命じられた政宗は、千代(のちの仙臺)に近い北ノ目城を本陣とし、上杉勢への猛攻撃を開(kāi)始。京では、三成が反徳川勢を結集して挙兵…。天下分け目の関ヶ原の戦いが始まろうとしていた。 第三十七回「幻の百萬(wàn)石」 9月13日放送 上杉勢と戦っていた政宗が、東軍の勝利を知ったのは、関ヶ原の戦いが終わって半月後であった。三成が処刑された頃、奧羽の地でさらなる戦いを繰りひろげていた政宗は、家康と交わした百萬(wàn)石の念書(shū)を胸に、新しい城普請の夢(mèng)を広げていた…。 第三十八回「仙臺築城」 9月20日放送 慶長(cháng)六年(1601)十月、伏見(jiàn)城に上洛した政宗は、帰國を固く禁じられた。慶長(cháng)七年(1602)、家康は徳川體制を天下に誇示するために、江戸城の周りに大名屋敷をつくり始めた。夢(mèng)にまで見(jiàn)た千代城を完成させた政宗だが、家康の命に服して江戸に下ることになる。 第三十九回「五郎八、嫁ぐ」 9月27日放送 政宗は、千代を仙臺と改めた。山形の最上家の悲運とは対照的に、伊達家では、五郎八と忠輝の婚禮。そして家康の一姫と虎菊丸の縁組みと興隆を極めた。政宗は、江戸では積極的に儀禮交換や外交につとめ、仙臺では國作りとその経営に沒(méi)頭した。 Disc 11 第四十回「大船造り」 10月4日放送 政宗は、宣教師ルイス?ソテロに仙臺での布教を認める。狙いは、南蠻との交易であった。そんなある日、忠輝の家老?大久保長(cháng)安から、天主教の入信帳という妖しげな連判狀を見(jiàn)せられる…。政宗は家康から南蠻船建造の許しを得るが、連判狀が露見(jiàn)する。 第四十一回「海外雄飛」 10月11日放送 南蠻船が完成し、政宗は仙臺城で南蠻使節団を発表。乗組員は、ソテロや支倉常長(cháng)ら総勢百八十六名。常長(cháng)には、イスパニア艦隊を大坂に呼び寄せる密命が託された。慶長(cháng)十八年(1613)九月、サン?ファン?バウティスタ號は政宗の夢(mèng)を乗せて月ノ浦を出港した。 第四十二回「大坂攻め」 10月18日放送 慶長(cháng)十九年(1614)、政宗は、忠輝の越後高田城の城普請を見(jiàn)守り、家康の信用回復に努めていた。その頃、真田幸村ら武闘派が主導権を握った豊臣方が、家康の畫(huà)策にのって戦闘態(tài)勢に入った…。十一月十九日、遂に大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。 第四十三回「ねこ、宇和島へ」 10月25日放送 秀頼と淀君は、家康の講和條件を受け入れた。徳川方は、大坂城の堀を埋め始めた。家康は政宗の長(cháng)男?秀宗を十萬(wàn)石の大名に取り立て、伊予宇和島を所領(lǐng)配分した。貓御前は不服であったが、宇和島藩十萬(wàn)石の創(chuàng )立のためと、海路、宇和島に向かう。 Disc 12 第四十四回「大坂夏の陣」 11月1日放送 家康は秀頼に伊勢への転封を命じた。秀頼はこれを拒み、再び決戦を辭さぬ構えを見(jiàn)せた。徳川勢は、堺を手中に納め大坂への武器弾薬の補給路を斷った。淀君は徳川勢が三萬(wàn)五千の大軍と知り、和睦の方法を探るが、時(shí)は遅く大坂夏の陣が始まった。 第四十五回「ふたりの父」 11月8日放送 政宗の諌言で大御所のご機嫌伺いに赴いた忠輝は、父?家康に不満の數々をぶつけた。政宗の力添えで、忠輝は禁中に參內し、しかるべき勲位を授かることになるが、この大事を忠輝は破ってしまう。家康に婿の父として詫びに赴いた政宗であったが…。 第四十六回「離縁狀」 11月15日放送 もはや戦國の世は終わった。白石城の片倉小十郎景綱は、伊達家の將來(lái)を案じながらこの世を去った。その頃、江戸?伊達屋敷の五郎八は、夫の命を救う術(shù)として、忠輝との離別を覚悟する。それは、伊達と松平を切り離そうとする幕府の狙いでもあった…。 第四十七回「天下の副將軍」 11月22日日放送 忠輝が手討ち覚悟で父?家康を見(jiàn)舞いに駿府へ赴く。家康は、會(huì )いたくても會(huì )えぬと涙を浮かべた。そして政宗に「天下の副將軍として、秀忠を助けて欲しい」と頼み、元和二年(1616)四月十七日、眠るようにこの世を去った。政宗は副將軍として采配を振るうことになる。 Disc 13 第四十八回「伊達流へそ曲がり」 11月29日放送 元和二年(1616)夏、幕府の仙臺藩討伐の動(dòng)きがある中、將軍?秀忠の姪?振姫と忠宗の縁組み話(huà)が舞い込む。しかし政宗は、振姫では不服と開(kāi)き直る。秀忠は振姫を養女とした。政宗は「これぞ伊達流へそ曲がり術(shù)の極意じゃ」と、ご機嫌であった…。 第四十九回「母戀い」 12月6日放送 東北の名門(mén)最上家に、幕府は改易の斷を下し、山形城召し上げの名代を政宗に命じた。成実の率いる大軍によって、引き渡しは何の障害もなく行われた。政宗は、母?保春院を仙臺に引き取ろうとするが、最上家の復興を願う保春院は仙臺入りを拒む。 最終回「大往生」 12月13日放送 副將軍?政宗の地位は揺るぎないものとなった。寛永二年(1625)、忠宗に家督を譲り、人生を享楽する日々を送る。しかし、身體は病にむしばまれ、寛永十三年(1636)五月二十四日、「畫(huà)像にも木像にも両眼を入れさせよ…せめて來(lái)世では愛(ài)を両眼で見(jiàn)たい」と言い殘して、江戸?伊達屋敷で大往生を遂げる。享年七十歳であった。
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